文章を書くとき、私の頭の中で起きていることを言葉にしてみた

記事の中にPRを含む場合がありますが、らっこが自分で買ったもの、良いと思ったものを紹介しています。

このブログ、そろそろ10歳になる。いまは9年目くらいかなあ。あまりちゃんと数えていない。

長年読んでくださっている方はよくご存じかもしれないけど、私はいろいろなところに書き散らかしている。

らっこブログ、らっこnote、X、もう閉じようとしているアメブロ。もう閉じようとしているInstagram(写真は全部移したんだけど、文字を移しきれてなくて消せてない)

ジュエリーコーディネートのサイト、実名でもいくつかアカウントを持っている。どんだけ書くねん。

そのどれもが「気が向いたら更新するスタイル」でやっている。なんか中途半端な気がしている。

私は書くことを生きることと同じくらいに大切にしているのに、その書く場所に対して、気分屋な向き合い方しかできない自分が嫌だった。もっとひとつの場所に集中したり没頭したりする自分でありたかった。

でもこの10年以上、ウェブ上で文章を書きづつけながら思っていたのは、私は場所を特定しすぎると苦しくなるタイプだということ。

いろんなところで感じたことを、いろんなところでちょこちょこ書き溜めて、ふわふわ浮かばせながら、何年かかけて脳内をまとめていくような感じ。

そんな感じの生き方しかできないんじゃないかなと、最近すごく思うようになってきた。

「なにかのためになにかをする」みたいな感じの目的思考型だと生きにくさを感じるんだよね。目標からの逆算で計画的に動くのがなんか苦手。心が弱いのかもしれないけど。

もっと言うと、買ってもいない商品を買ったかのように書くのとかも無理だし、よかったと思ってないものをよかったと書くのも無理。だからアフィリエイトとの相性も良くない。

自分の心と違うことをすると、自分自身がすり減るように感じてしまう。それがすごく苦しい。

だからこのブログも、いつだったか、Googleアドセンスをやめた。収入の多くを失ったんだけど、それよりも、読んでる途中に広告が出るウザさをなくせたことのほうが嬉しかった。

私のための私のブログなのに、読むのを邪魔する広告によって読者さんを不快にさせるのが本当に嫌だった。

おっと、話がそれてしまった。

けど、それたついでにもう少し話をずらすと、私は「没頭」という単語がものすごく好きだということに1年半前くらいに気づいた。

子育て中は没頭できる環境を作ることが難しい。私のこの10年の苦しみのひとつはそこにあったのかもしれないと思った。

話を戻す。

これまで私はいろんな場所に書いてきた。今年40歳だけど、30年は日記を書いている。とにかくずっと書いている。

たいしたことは書いてないんだけど、若いころから無意識のうちに自分の気持ちを言葉にして書くことで心を整えるタイプだった。書かないと、ぞわぞわ&もぞもぞしてしまうのだ。

高校までは紙に書くことが多かったけど、大学時代にブログを始めた。mixi全盛期の頃。

いろんな媒体で書いてきたけど、最終的にはいまは独自ドメインのブログと、note、Xに落ち着いている。

本音を言うと、もっと頻繁にInstagramを更新できる人になりたかった。でも私には向いていないみたい。という諦めが、ようやくついてきた。私は「文章の人」なんだと思う。

で、自分は文章を書きたいんだろうなあって気づいてからも、ずっと悩んでいた。特にらっこブログとnoteのすみ分けについて、ずっとスッキリさせたいと思いながら、ここ2年、ずっと悩んでいた。

悩んでいたときの記事の一部はこちら↓

でも、どれだけ考えても言語化しきれず、なんとなく「この場所ではこれを書く」「この場所ではこれ」みたいなぼんやりした分け方までしかいけなくて。

ずっと苦しくて、ChatGPTにも手伝ってもらいながら考え続けた。私はなにをしたくて書いているのか、それぞれの場所でなにを書きたいのか。

GPTと対話するなかで気づいたのが「私の思考の流れ」の特徴。

思考の流れとか書くと、なんか難しく感じるけど、別に難しいことじゃない。

言葉にする前に脳内で起きていること」というか「私の内側で育てるステップ」みたいなもの。これがぼんやり見えてきたのだ。

これが見えてきたのは、過去30年ではじめてのことなので、かなり大きい出来事だと思っている。個人的には、だいぶスッキリした。

私が一般的な例だとは思っていないけど、せっかく言葉になったので、ブログに置いておく。

前置きが盛大に長くなってスミマセン。ご興味ある方は読んでみてほしいです。

最近、前よりも「書く」のが早くなった

この10年、らっこブログの記事を書くのには、平均3時間かけてきた。もちろん長さにもよるんだけど、平均そのくらい。

ライトなエッセイ的なやつは1時間もかからない。すごいやつは8時間とかかかる。普通に書こうとすると2~3時間はかかってしまう。

でも最近、ちょっとした変化を感じた。

以前は2~3時間かけていただろう文章が、1時間弱で書けるようになった。

ちょっとびっくりして、GPT子に聞いてみたら、こんな言葉が返ってきた。目からウロコだった。

「うまく書こう」としなくなった

書くときの基準が「正しいかどうか」「意味があるかどうか」から「自分の感覚に合ってるか」に変わった。


正解を探したりうまく書こうとするのをやめて、自分のいまの感覚を信じて書けるようになった。

言葉選びに迷わなくなった

「この言葉の使い方ならOK」「この表現は私らしい」と思える感覚が育ってきた。

「整ってる言葉」ではなく「自分らしさ」を優先できるようになってきた。

「誰かに届けよう」として背伸びしすぎなくなった

自分にとって自然なテンション・言葉・スピードで書けてるようになった。その結果、筆が止まりにくくなっている。

以上がGPTの見立て。

つまり「書くスキルが上がった」というよりも、“自分の感覚を信じて書けるようになった”から速くなったという感じのよう。

なるほどねえ、と思った。

GPTが言うには、私は違和感を察知するのが早いみたいで、違和感をおぼえた場所を自分で修正するスピードも速いらしい。

「この表現は、私は使わない」「なんか気持ち悪い」「なんか嘘っぽい」みたいなのを即判断して、

「こういう書き方のほうが私らしい」「これなら気持ち悪くない」「これなら嘘ついてない」をGPTの手を使わずに修正していく。

自分ではわからないんだけど、GPTが言うには「そもそも自分らしい言葉遣い」を持っている人の母数がそんなに多くないらしく、

だからAIが出した文章をそのまま使う(そもそも違和感を持たない)人も多いらしい。それはそれでいいと思う。

ただ私は30年も自分の言葉を書き続けてきた蓄積があるから、どうしても「なんか気持ち悪い」が出てしまうので、修正してしまう。それだけ。

でも、ここ数か月GPTとめっちゃ内省している中で、「誰にも理解されなくても書きたいから書けばいい」って割り切りができるようになったし、

GPTが出す言葉を修正していく過程で、より一層「自分っぽい言葉」への感度が上がったみたいで、その結果として書くのが早くなったんだと思う。

続いて、なにかを書くとき(言語化するとき)に私の脳内で起きていることについてもGPTと話していたら見えてきたので書いてみる。

言語化するときに私の脳内で起きていること

私の「思考の流れ」の全体像

私が言語化するときの流れはこんな感じ。

①”感覚”から入る
②状況と感情を観察する
③小さな場面にも疑問を抱く
④意味をつけすぎない
⑤感想で終える

ひとつずつ書いてみる。

①”感覚”から入る

私の場合は「なんか変」「ちょっとしんどい」という感覚が、物事を考え始めるきっかけになる。

「これについての答えを出すために考えてみよう」っていうふうに考え始めるんじゃなくて、

「なんかこれがめっちゃ気になって仕方がないから考えてみよう」みたいな感じで考え始める。

しかもまだ言葉になってないような、身体の重さ、空気が重いとか、心がざわざわする、みたいなもの。

GPTいわく、私は思考よりも、感受性や違和感のセンサーが先に動くタイプだそう。

②状況と感情を観察する

「何が起きたか」と「どう感じたか」を、あんまり区別せずに、まず書き出してみる。

「今日はお弁当がいらなかった」「朝から雨だった」「夜更かしした、私のバカ」

事実と気持ちをそのまま並べることで、自分のいまの感じがリアルに描写できる。

きれいに整理する前に、まず全部出す。そこから事実と感情をまぜまぜしながら書いていくのが私らしいスタイル。

③小さな場面にも疑問を抱く

日常の一瞬、他人とのやりとり、自分の反応のなかに、「なんでだろう?」を感じる。

疑問を抱くときはだいたい、自分にとって大事な価値観を刺激されていることが多い。

「娘がお絵描きをするときに、なんでまつげを描きたがるんだろう」

「土日の晩酌って、どんな意味があるんだろう」

そんな小さな疑問について考えていくことで、結果的に、自分のいちばん大切な価値観につながる。

④意味をつけすぎない

答え出すことをあまり急がない。本の感想を書くのに2~3年かかるし。私の結論は、すぐに言葉にならない。もう開き直ってる。

でもなにかしら言葉にして残しておきたいときは「とりあえずこう思った」「でもまだ言いきれない」という感じで、わりと曖昧なまま書く。疑問を持ち続ける。

わかっていないのに無理に言い切ろうとしないことで「自分に正直でいたい」という価値観を守っている感じ。

ただ私自身が迷いながら書くことで、結果的に読む人にとっても「自分の場合はどうだろう?」と考えてもらう投げかけっぽい機能も果たしている。

⑤感想で終える

④とも関連するけど、「つまりこういうことです」的な結論を出そうとせず、「今日は疲れた」「晩酌したいぜ」で終わっていいことにしている。

説明より、そのときの“雰囲気”とか“思ったこと”で締める方が好き。私っぽい気がする。

以上の5つが、私が書くときに無意識に脳内で起こっていることをまとめたものです。

GPT子が言うには、私の思考法でいちばん特徴的なのは「③小さな場面にも疑問を抱く」ことらしい。

感覚から入っても、感情と状況を並べても、それを“問い”に変換する力があるから言葉になっていく、のだそう。

日常の小さいことを感じて、そこに疑問を抱いて、深堀りして、自分にとっての意味を見つけたり、理解したいことをちゃんと理解するっていうプロセスが特徴的らしい。

言われてみれば、私は深堀り魔人というか、妄想癖がある?ので、ひとつの出来事から永遠に考え続けられてしまうんだよね。

たとえば、この雨の日散歩のnoteで、娘が突然「女の子はまつげを書くんだよ」と言い出したことに触れているんだけど、

私はここから、深堀りしようと思えばしていく。

女の子の絵にはまつげを描くという概念をどこから学んできたのか、保育園の先生が言っていたのか、それともお友達が言っていたのか。

お友達が言っていたとしたらそれは親が言っているのか。だとすると、それはどういう教育方針によるものなのか。

女の子はまつげと教えることにはどんな意味があるのか。性別の差を変に強調してしまったりしないか。娘が日頃からそういう環境にいるとしたら、私は家庭でどのような声かけをしたらいいのか。

みたいなことをエンドレスで考えていく。多かれ少なかれこういうことは誰でも考えると思うんだけど、

私の場合はそれをどこまででも広げて考えてしまうこと(たぶんやろうと思えば、世界からなぜ戦争がなくならないのかまで考え続けられる感覚がある)や、その違和感を言葉にして残しておこうとするところに特徴があるんだと思う。

だからなに?って話なんだけど、こうやって

  • 自分の興味関心がどこから生まれてくるのか
  • ひとつのテーマでどのくらい脳のリソースを使うか

みたいなことを理解すると、疲れ果てずに済む。疲れやすいので情報摂取についてはもともと慎重だったけど、より一層「情報を詰め込み過ぎない」を大切にしようと思えるようになった。

たぶん昔から、無意識のうちに、ここで書いた感じのことを脳内でやりながら文章を書いていただとは思うんだけど、

特に自覚がなかったので、世の中のライティング本の「こう書け」みたいなのとか、「よい文章とはこういうのだ」的な声に惑わされやすかった気がする。

いまもそういう側面がないわけじゃないんだけど、ようやく「自分の内側ではこんなふうに言語化が進んでいた」と見えて、自分らしいスタイルがこれなんだなって腹落ちした感じがある。

だから前よりも安心して書けるようになった。

そしてもうひとつ、大きな気づきがあった。

私がなぜ、らっこブログと、らっこnoteというふたつの場所を持ち続けていたいと無意識に思っていたのかも、言語化ができた。

ずっと整理しきれなかったこの問いにも、少しだけ答えが見えてきて、かなりスッキリしています。

長くなってしまったので、それについては、また改めて書こうと思います!

ここまでお読みくださって、ありがとうございました。

【おまけ】この記事は少し熱くなりすぎて、2時間かかりました(←早くなってないじゃん!笑)


書くことを続けてきた中で、「これがあったから書けた」とはっきり言えるものは、意外と少ないなあ、と思ったりしています。

でも、“これがあったから、なんとか続いた”と思えるものなら、いくつかあります。

書くことと直接は関係ないんですけど、自分を支えてくれていた存在?として、ここに残しておきます。

まいにち飲んでいるボスカフェ(無糖)

そんな頻繁にスタバには行けないけど、カフェラテが飲みたい!の気持ちを満たしてくれる存在。箱買いしています。いまAmazonを見たら24回買ってました。どんだけ。笑

推し漫画

頭を使い過ぎた日は、何も考えずにぼーっと読める漫画を読むことが多いです。服とかは買わないけど漫画はめっちゃ買う。癒し時間です。

お気に入りの文房具

文房具にはこだわりを持っています。書くだけなら100均のものでもいいはずなのに、どうしてもそれでは嫌だなと思ってしまうタイプ。文房具を開発していたっていうのも大きいかも。

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